こんにちは、英語同時通訳者でオンライン英語・通訳講師の山下えりかです。
毎年この時期に多いテレビの戦争特集。怖いし辛いし苦しくなるので、好んで観たいとは思いません。それでも私はこの時期、あえてできるだけ多くの番組を観るようにしています。通訳者として、必要と感じるからです。今回はその理由についてお話しします。
最初に書いておきますが、ここで触れたいのはあくまでも通訳業の視点から見た理由であり、私が戦争特集を観る理由はここで挙げるもの以外にもあります。それは知識を増やすためであったり、自分の祖父母を含め数少なくなった体験者の声を聞くことが大切と感じるためであったり、日本人として自分の国の歴史を知るためでもあったり。それはそれとして、今回はあえて通訳業的な理由に絞らせていただきます。
それではまずは私の子供時代の話から。
私の父は私が小学生になった頃から夏休みのこの時期、8月6日(広島)、8月9日(長崎)、8月15日(終戦記念日)の3日、自分が家にいる日には自分と一緒にサイレンに合わせて黙とうさせるようになりました。このお陰で今でも、毎年8月のこの3つの日を忘れることはありません。日本人としてとても大切なことだと思います。
それとほぼ同じ頃、父は積極的に戦争関連のアニメ映画を見せるようになりました。「うしろの正面だあれ」「ほたるの墓」「はだしのゲン」大人になった今でも観るのを躊躇うものばかり。子供の私には衝撃が強すぎてトラウマになり、暗闇が怖くなり悪夢にうなされた夜もありました。映画を観ている間は戦争の事実云々よりも恐怖が先に立ち、ただただ怖くて泣いていました。辛いことや怖いことを目の当たりにした時、感情を抑えず泣くのは自然なことになりました。
これに関しては子供相手にやり方が少し荒すぎた気が今でもしていますが、先述の黙とうを含め父なりに使命感があったのだと理解しています。特に今の時代、家庭で誰かが教えなければ戦争のことなど知る機会はほとんどありません。学校では教えてくれませんから。
19歳高校卒業の春(留学で留年したので19歳)、母方の祖父母の希望で二人の故郷である長崎(佐世保)に旅行しました。両親は休みの都合がつかず、祖父母と叔母夫婦、私と妹の6人での旅行でした。その旅行中、長崎の原爆資料館に立ち寄りました。
凄惨な展示の数々に、やはり涙を堪えられませんでした。そこにフリーライターだった叔父が近寄ってきて小声でこう言いました。
「これを見て泣くしかできないなら、ジャーナリストにはなれないよ。」
説明が遅れましたが、19歳当時の私の夢は国際的なジャーナリストになることでした。とは言え英語が好きだったのと、高校留学中に取ったジャーナリズムの授業が楽しかったからと言うだけの理由で、通訳者の夢を追った時のような具体性はまだ無く比較的フワフワした感覚だったのですが。それでも当時は私なりに真剣で、その数か月後から始まる大学生活ではジャーナリズムを専攻する気満々でした。
これは同じ業界を志す私に向けた、叔父なりの助言でした。 しかし私は叔父のこの言葉を、すぐには理解できませんでした。子供の頃からその類のものを見て泣くことは私にとって自然なことでしたし、感情表現でもありました。むしろこれを見て泣けない人間にジャーナリストが務まるのかとも思いました。意味が分からないままその言葉は立ち消え、その後しばらく思い出すことはありませんでした。
転機が訪れたのは私がサイマル・アカデミーに入ってから。準備科の頃だったと思います。あるドキュメンタリー番組が、福知山線脱線事故で障害を負った女性について特集していました。ただ与えられるものを観ていた小学生時代とは変わり、当時は観ていて辛くなるようなものはできるだけ避けるようになっていました。どうしても気持ちが揺さぶられて苦しくなってしまうからです。しかしその時は内容の重さにチャンネルを変えるタイミングを失ってしまいました。そしてやはり苦しくなり、泣き出してしまいました。
この時にハッとしました。
通訳者がこれではいけない、と。
どんなに辛い内容であっても、通訳者が泣いて声を詰まらせたらプロ失格です。感情に振り回されない強い精神力を身につけなければいけないと自覚しました。
それ以降、事件、事故、災害、戦争、紛争、難民問題等、それまで辛くて避けていたニュースやドキュメンタリーを積極的に観るようになりました。ドラマやアニメではなく、ノンフィクションを選ぶようにしました。いつか何かの機会でそういうものの通訳に携わった時に、事実を見つめ受け止め理解して、自分の感情を排除した冷静な訳をしっかりと出せるように。怖い、辛い、苦しいといった感情を抑え、しっかりと目の前の現実に向き合うよう、ただひたすら数をこなし、心と頭を鍛えました。
これは通訳工場のコビトさんの中で言うなら、パニック担当にあたります。通訳作業を滞らせる恐れのある感情を如何にうまく切り離してパニック担当にあずけるか。これもまた、大切な訓練でした。
様々な特集を観た中で、やはり一番辛かったのは戦争の映像でした。子供時代に観たアニメ映画で植え付けられた根深い恐怖心があったからです。だからあえて戦争関連の特集を沢山見ました。これに対処できるようにならなければどこかで躓く時が来ると感じていたからです。
最初のうちはこういうものの見方は感情を殺し無感覚になるのではないかと思っていました。そして何も感じなくなってしまうとしたら、それはむしろ通訳には良くない結果になるのではと危惧していました。
しかし実際にやってみると、感情を排除して物事の本質を見ようとすればするほど、感受性は鋭くかつ豊かになっていると感じています。以前は目の前に突き付けられた事実に感情を乱されるばかりだったのが、今では事実は事実と受け止めてその上で内から出る感情を管理できるようになりました。それができるようになった頃、長崎の原爆資料館で叔父に言われた言葉を思い出しました。
「これを見て泣くしかできないなら、ジャーナリストにはなれないよ。」
涙と不安定な感情が先に出ては見るべきものが見えなくなる。人に何かを伝えるプロを目指すなら、涙と感情はあっても前に出すべきではない。これがこの言葉の意味だったのだと、自分なりに理解しました。
結局ジャーナリストではなく通訳者の道を選んだ私ですが、「伝えるプロ」であることに変わりはありません。叔父のこの言葉は今、通訳者山下恵理香の大切な礎の一部になっています。
以上が私がこの時期に多い戦争特集を進んで観る職業的な理由です。これは通訳学校では誰も教えてくれません。誰かに教わってできることでもありません。しかしながら通訳者として様々な現場で仕事をするにあたり、英語力や通訳技術と並んでとても重要な資質だと私は思っています。
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