後になって思えばこのパーティーは初めて、それまで私を無意識に差別から守ってくれていたものが何もない、または通用しない場でした。
白人社会へのパスポートだったホストファミリー、誰ともまともに話せなかったために発揮できなかったアメリカン・イングリッシュ、折り紙のように注目と人気を集められるパフォーマンス、当時学内のインターナショナルクラブの副会長という肩書もありましたが、これも話ができなければ誰にも知らせることがでません。自分が何者かも周囲に聞いて貰えない「ただのアジア人」としての自分はこんな扱いを受ける対象なのかと、とても悔しく思いました。
今でも強烈に印象に残る経験ですが、この出来事はある意味でとても特殊な人種差別体験でした。このパーティーでの人種差別は私個人への差別ではなく、大きな括りで「白人」から「有色人種」に対しての差別だったのですから。ですから誰かから何かひどいことを言われたわけでもなく、物理的な暴力を振るわれたのでもなく、ただただ「別物」として扱われ、無言の圧力をかけ続けられました。恐らく彼らも私の扱いに困っていたのでしょう。
10年経った今この出来事を振り返り、気づくことがあります。まず白人オンリーの場に私が行ったことが無かったのかということ。意識していなかっただけで、何度もありました。カンザスのホストファミリーの通った教会や、ヒューストンのホストファミリーの会社で開いたパーティー等、思い起こせば沢山ありました。
しかしホストファミリーの庇護があったために、居心地の悪さなど感じたことがなかったのです。ホストファミリーにホームステイをしている間は家族として扱われていた、つまり、私も白人として扱われていたからです。
そして恐らくそこにも起因しますが、自分の中に無意識に‟名誉白人”としての意識があったこと。
※‟名誉白人”とは、アパルトヘイト(人種隔離政策)下にあった南アフリカ共和国で日本人(とその他いくつかのアジア諸国)が受けた‟特別扱い”のことです。アパルトヘイトは白人と有色人種を区別するための政策だったので、黄色人種のアジア人もその対象でした。しかしながら日本は南アにとって外交上重要な国だったため、「おたくら黄色いけど白人とほぼ同等に扱ってやるよ」と当時の南ア政府が法的に‟honorary whites(名誉白人)”を定めていたのです。
このパーティーの直後、私はパーティーでの出来事を思い出す度に思ったことがありました。「私が日本人だとわかっていたら、会場の反応は違ったのではないか」と。
実際普段から私が日本人と分かると友好的に声をかけてくるアメリカ人は多くいました。日本のゲームやアニメの人気が高まってきていた頃ですし、まだサムライやキモノで日本が物珍しがられていた頃です。日本はアメリカから羨望の眼差しを向けられる国、アジアの他の国とは違い対等に扱われる国だという思い込みがありました。日本人は他のアジア人とは違って白人に差別を受けたりしないだろうという意識。これを言葉にすれば先述の通り、‟名誉白人意識”となります。
あの時のショックの大きさは、自分の意識にも原因があったのだと、今だから思えます。まあホームステイの副作用とも言えるのかもしれませんが。
しかしこれに関してはこうも考えることができます。
ホストファミリーは私を白人として扱ったと書きましたが、それも彼らが意識的に行っていたことなわけではないと思います。ただ「自分たちと同じ」に扱っただけなのでしょう。それが「白人扱い」という印象を受けてしまうのは、彼らの私以外の有色人種への潜在的な区別意識が生活の中に見え隠れしていたからです。休日のホームパーティーに呼ぶ相手は白人ばかりだとか、通う教会に有色人種がひとりもいないとか。
しかし私は思うのです。彼らは私を家族として受け入れてくれました。それができるのなら自分の中にある区別意識をなくし、ちゃんと相手を知って「普通に」関わりを持とうとすれば、人種差別ってなくなるんじゃないのかな、と。
まあこれは所詮理想論で、対個人は良くても対人種となるとそううまくいかないから、人種差別は無くならないのが現実なのでしょうけれど。
以上私が体験したアメリカの有色人種差別でした。
ちなみに白人警官の黒人一般市民銃殺のような事件は別として、この程度の差別なら日本や他の国でもあると思います。言語差別にしてもそうです。外国人発音の日本語を話す人(特にアジア人)を低く見る傾向、ありますよね。自分と違うものを区別することで差別が生まれるのは、人の常なのかもしれません。
差別をなくすためにまずしなければならないことは、自分も無意識に誰かを差別していることを自覚することなのではないかと、10年前の自分に言ってあげたいと思う10年後の今なのでした。
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