こんにちは、英語同時通訳者でオンライン英語・通訳講師の山下えりかです。
先日シャドーイングのお手本の記事に載せたパックンことパトリック・ハーランさんが数年前に行った英語の講演。シャドーイングの教材として紹介しましたが、もちろんその中身もとても興味深いものです。初めてこの動画を観た時には、ふだん彼が日本語で話すところしか聞いたことがなかったのでとても新鮮で、英語で話す時の発声(発音はもちろんですが発声)の美しさにほれぼれしてしまいました。パックンのこの講演の中でタイトルのことわざに関する話があり、とても共感したと同時に私も思うところがあったので、今回のお題に選びました。
講演の中でパックンはこう話していました。
「日本人は一を言って相手が十を理解することを前提として話をしますが、文化を越えたコミュニケーションでは別の星から来たくらいの気持ちで話さなければいけません。一を言って十の理解を期待するのではなく、十言って一を理解して貰えたら十分なんです。それくらい難しいことなのです。」
本当にその通りだと思いました。異文化間コミュニケーションにおいて日本人が英語力以上に身に付けなければいけないのはまさにこのこの姿勢です。そして通訳者という会話を仲介する立場から見ると、これは多くの日本人にとって、話す時よりも話を聞く時の方が大きな問題となっていると感じます。
まず日本人の「英語は何となくわかる人」の多くが英語でのコミュニケーションでやってしまいがちなのが、「話の大筋はよく分からないけどいくつか分かる単語があるからそこから内容を予想する」という行為です。これは、よほどの背景知識が無い限り大きく外れることが大半です。
またこれと似た行為では、日本側のクライアントが通訳の冒頭だけ聞いて話の続きを勝手に予想し、最後まで話を聞かずに通訳者を黙らせるということもあります。英語は結論が先に出てくることが多い言語であるため、これをやる人は「結論は聞いたからあとはいいや」という姿勢になりがちですが、この態度は相手に伝わり最悪の印象を与えてしまいます。
どちらのケースでもほとんどの場合、理解不足が後に疑問や誤解を生み、話が遠回りになってしまったり、相手に同じ話を繰り返しさせてしまうことに繋がります。
これらを「一を聞いて十を知る」と勘違いして行っている人も多いようですが、それはこの言葉を遺してくれた先人とコミュニケーションの相手に対してあまりにも失礼です。このことわざの意味は「話の一端を聞いて全体を理解するくらい賢くて理解力があること」です。つまり「賢さ」の元となる膨大な「知識」が前提となっています。そして異文化間コミュニケーションにおけるこの「知識」とは、相手の思考や理解の基盤となっている大小様々な文化に基づくものです。自分とは全く別の文化圏で生まれ育った相手の、国や個人的な文化的背景まで知り尽くしているということでない限り、ただの「思い込み」が「理解」になることはあり得ません。
こう考えると、異文化圏出身の相手に限らず、日本人相手であっても自分のものさしで相手を測ることはコミュニケーションの妨げとなる危険な行為だと言えます。
英語力を身に付けることは確かに大切ですが、英語力不足は通訳者を入れれば解決できることです。しかしコミュニケーション能力不足は本人が自分で何とかしない限り、どんなに優秀な通訳者を使っても補うことはできません。そして同じ日本語を母語とする日本人同士でのコミュニケーションでは、自分の前提が相手の前提と同じとは限らないという意識を常に持つことが必要です。「相手のことは分からない、相手も自分のことは分からない」という認識と、「一を理解するために十の努力をする」姿勢こそが、日本人が良質なコミュニケーションを行うために必要な第一歩です。
ということで今日のまとめ。
一を聞いて十を知るは天才または超人のコミュニケーション術。
凡人は一を知るために十を聞くべし。
いち凡人として通訳者として、私も肝に銘じます。
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